19.障がい児のための「療育おもちゃ」


●知識と運動能力は楽しみながらつける

ある時、テレビを見ていると、布で絵本を作っているグループの活動が取り上げられていました。それを見て、紙の絵本では体験できない、布ならでの良さが、知的障がいの子供には解りやすいと感動しました。息子に絵本を読んであげてはいたのですが、一方的に読んでいるだけで理解しているかは疑問でした。家にあった「はらぺこあおむし」の絵本を見て、これを布で作れば、あおむしを作って、りんごやいちごなど穴を開けたところにあおむしを通すことができる。また、さなぎを作って、その中に蝶々を入れておけば、「さなぎ」から「かえる」と言う事がどういうことなのか解る。と思いつきました。それで、早速、家にあった残り布で作りました。そして、息子にそれを実践させました。小さなあおむしを果物の穴に通すことは、指先の訓練になります。あおむしは大きく変身し、さなぎになり、さなぎの背中から蝶々が出てくる感動的な絵本になりました。このように、楽しみながら、知識をつけていけたら子供も「知識を得ていくことの面白さ」が育つのではないかと思いました。

幼少期から、運動能力も健常児とは格段に劣っていました。ボール投げさえ出来ません。肘を曲げること、手を後ろに持っていき、手首のスナップを利かせ、ボールを離すタイミングを合わせることができません。布絵本のように、楽しみながらボール投げの練習が出来るようなおもちゃが出来ないかと考えました。

家には残り布が沢山あったので、おもちゃを作ることにしました。ボールを投げる動作をさせるには、投げてみたいと思わせなくてはいけません。その的は、興味を持った電車の線路にすることにすぐ思いつきました。投げたボールが的にくっつくには、どうすれば良いか考えました。そして、当時、赤ちゃんのオムツカバーに使用されていたマジックテープを利用することを思いつきました。オスとメスがあり、すぐ剥がすことができます。周りに線路名、中心には、数字を書き、それをめがけボールを投げさせ、すごろくと同じようにボールがくっ付いた数字の数だけ布製電車を進ませていくというアイデアがまとまり、「山手線ゲーム」は完成しました。

 

普通の柔らかいボールでさえ、握れなかったのですが、布に綿を詰めたボールは、柔らかくつかむことが出来ました。そして、数字を読んで、数字の数だけ布製電車を進ませるということも、数の勉強になりました。これは、何人かで競うことができるので、次男のお友達を何人か呼んで遊びました。順番を待つということもわからなかった息子に「順番を待つ」という練習にもなりました。

幼稚園で「縄飛び」をする課題がありましたが、その縄跳びに必要な両足が地面から離れるという両足飛びができませんでした。小学生になって、この運動能力をつけるのに何か良い方法がないか思いあぐねていました。両手を持っていてあげれば、両足が上がることに事に気付いたので、袋に入ってジャンプすることはどうだろうと思いました。腰まで入る大きな袋を作成しました。袋の縁をつかめるようにしなければ子供は安心しません。しっかり縁が固定されていなければ安心してジャンプができません。それで、縁には、ホースを通すことにしました。そして、袋の中に入らせ、端のホースのところを掴ませると、袋の端を掴んでいるだけで安心し、また布が足に当たることにより、地面についているような気持ちになり、ジャンプができるようになりました。「ジャンピングバッグ」の完成です。

幼稚園時代には、片足飛びしかできなかったのですが、その袋に入ってピョンピョン飛びをさせていくうちに、「縄跳び」ができるようになりました。小学生の3、4年生の頃、全校あげて縄飛びに取り組んでいた時期がありました。皆と一緒に出来るようにと毎日夕食前に、親子で、縄飛びの練習をしました。

「縄飛び」が自由にできるようになると、今度は1人で50回迄、80回迄と目標をもたせやらせました。

このように、「できない」で済ませるのではなく、大人が子供が何につまづいているかに気がつけば、工夫して

出来るようにしてあげることができ、運動能力が発達すれば、脳も発達してゆくのです。

●就職のための予行練習となったボランティア活動

 週2回開かれる「障がい児のための手作りおもちゃ」のサークル「TOY工房どんぐり」には、小学校5年生頃から放課後の息子を連れて参加していました。しかし、中学生になった頃、私も仕事をしなければならなくなり、息子の帰って来る時間に家に居ることが出来ない状況になりました。手作りおもちゃのボランティアサークルに私が仕事で参加できないことを報告すると、息子1人で参加しても大丈夫と言うお墨付きをもらえました。長年息子を連れて参加していたので、息子がどういう障がいか、どのようなところを注意すれば良いか、ということも主婦達にすっかり浸透しておりました。幼少時から、ハサミを使わせたり、中学校ではスエーデン刺繍をしていたので手先が器用に使えた事が功をなし、ハサミでフエルトの文字を切れる上手さは息子の右に出るものはいないと重宝がられて、活動場所に行くと、必ず息子の仕事が沢山ありました。皆さんに褒めてもらえると本人も喜んで、週2回、学校の放課後、1人で活場場所まで自転車で行き、お手伝いをする事になりました。

そのボランティア活動の中、

1 活動場所に着いたら「こんにちわ」と挨拶する事

2 皆さんに作業の手順の説明の話を聞く事

3 作業が終わったら報告する事

4 途中の休憩時間に皆さんにお茶を入れる事

5 片付けをする事

6 帰る時はきちんと「さよなら」の挨拶をしていく事

就職に際し当然できなければならない社会のルール、マナーを、目を光らせた5~6人ほどの主婦に1人の教え

子と言う環境でみっちり教えて頂く結果になりました。遠慮なくビシビシ教育され、特別扱いしない人達の中で

本人にとって居心地の良い楽しい場所であったからこそ養護学校高等部を卒業するまで7年間続けられたと思い

ます。ボランティアをしながら褒められたり、叱られたり、学校とは違う、この経験があったからこそ養護学校

を卒業後、すぐに、工場に就職する事ができ、勤務地まで1時間程の場所に電車を2回乗り換え通勤することが

できたと皆さんには、本当に感謝しております。

障がいを持っているから、家の中で過ごすのではなく、皆さんに、障がいを理解してもらい、社会の中の一員として必要な人材であることを障がい児の親が発信していくことも必要なことだと思います。

 

●オーストラリアでノーマライゼーションを体験

私たちが考案した障がい児のための「さかなつり」が1989年「'89福祉機器デザインコンペ京都」で「優秀賞」を受賞致しました。それをきっかけに1993年、オーストラリア メルボルンで開催された「I.P.A世界大会・おもちゃ図書館国際会議」(ワールドプレイサミット'93)に参加することになりました。リーダーHさんと私と息子、おもちゃの図書館連絡会副代表である小児科医の先生、おもちゃ図書館関係のメンバーらとオーストラリアに行くことになりました。5日間という期間、世界中から障碍児教育専門の先生方が出席。一般主婦は私達日本人だけです。

ワールドプレイサミットで、まず、感動したのは、1日目に開催された歓迎のパーティです。大学で開かれたのですが、体育館は色鮮やかに飾り付けられ、入り口で皆さんが障がいのある息子に、スッと向こうから何も違和感なく握手してくれ、学生さん達は飲み物等を運んでくれたり、大学生がバイオリンで演奏してくれたりして場を盛り上げてくれています。日本だったら、何となく躊躇したり目線を感じるのですが。当たり前のように対応してくれる世界に息子と私は、こんな世界もあるのだと感動と驚きの日々でした。そんな解放された気分の中、息子はいつもとは違った表情を見せていました。他区から参加の日本の障碍者の親子がワークショップを開き、コーヒーを入れ、音楽に合わせ歌を歌い出すと、外国の参加者がそれに合わせ手拍子を打ち、自然と大きな輪を作り踊りだすと、息子も自然とその中に参加し、手をつなぎだすという場面を見る事ができ、感動しました。手をつなぎ、踊り出すということは、当時、絶対考えられないことだったので、私は感動しました。

私達主婦グループの活動内容を紹介するセミナーが開催され、世界中から集まった障がい児教育の専門の先生方が立見席も出るほど聞きに来てくださいました。

おもちゃとスライドを見せながら、Hリーダーが英語で、どのような経緯で障がいを持つ子供達のために手作りおもちゃを始めたのか、どのような思いと工夫でここまで活動を高めてきたかを報告しました。そして、ボランティア活動をしている自閉症の少年ということで息子が紹介されました。息子がたどたどしいつまりつつの英語で自己紹介をすると、会場を埋め尽くした会場から、割れんばかりの拍手が鳴り止みませんでした。沢山のワークショップの中で、私達一般主婦のグループの活動がポスター1枚の告知で、興味を持たれ、通路まで埋め尽くすほどの障がい教育のプロの方達が講演を聞きに来てくださった事は、本当に感慨深いものがあります。

養護学校の見学ツアーに参加すると、パソコンを障がい児が利用しやすいよう独自に開発し、知識を得ることができるようになっていました。学校の見学で驚いたのは、学校内が非常に明るい色合いで建てられているということです。教室の壁が色鮮やかな色で彩られ、飾り付けもあり、教室全体が明るい雰囲気で驚きました。日本の学校だったら学校の敷地の隅の方に追いやられ、白一色の無地で暗い雰囲気のところが多いのに全く違います。この大会でさえ、世界中から、障がい児教育の専門家が出席しているのに、日本はどうして障がい児教育の専門家が出席していないのか疑問を感じました。その方達にこのようなお知らせがいっていないのなのでしょうか?

各イベントの終了後、皆で公園に行きました。その公園の野外音楽堂で著名な楽団の音楽会が開催されるということでした。オーストラリアの人達は、皆、カゴにワインやパンを入れて刻々と集まってきます。家族連れだったり、恋人同士だったり、そんな中、私達は、車椅子の子供を連れて参加したメンバーと共に丘に登りました。そんな時も自然と車椅子を押すのを手伝います。電車に乗る時も、バスに乗る時も、自然とスッと手が出ます。自閉症の息子に対してもそうです。公共のトイレも必ず障がい者専用のトイレが併設されていました。当時の日本にはまだ、多くはありませんでした。世の中に、障がい者がいることがごくごく当たり前にいるという世界が出来上がっているのです。

これが本当のノーマライゼーションなのだなと初めての海外旅行で体験することができました。